光林寺縁起書【こうりんじえんぎしょ】
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光林寺縁起書
光林寺は、市内牛の谷に慶長元(1596)年汲山和尚が創建し、同9(1604)年汲月和尚が中興したと伝えられる。正徳4(1714)年、寺号の光林が紀州3代藩主綱教の院号と同じで差支えるため、護国山金剛寺と改められた。
尾鷲地方が志摩国から紀州国に編入されたのは、「紀伊国昔時国堺弁」によると、天正10(1582)年であり、また慶長6(1601)年の検地にも、紀伊室(牟婁)郡と公式に記録されている。
縁起書の慶長9年には、すでに紀伊牟婁郡になっていたが、汲月和尚が新たに写し置くとあるので、昔、光林寺本尊薬師如来を、島勝浦の円通山安楽寺の11面観音菩薩と取り替えたと伝えられるが、そのとき入手した11面観音の縁起書を光林寺の縁起書として、書き替えたものであろう。
この本尊取り替えの時期および縁起書の書き替えの時期が、慶長9年と思われるが、新宮檜杖村の寿天が、もとの縁起書を書いたのは紀州領になる前で、天正10(1582)年以前のことと思われる。市内では一番古い文書である。
指定区分 | 市指定 |
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指定種別 | 有形文化財(書跡) |
指定登録日 | 昭和30(1955)年9月10日 |
所在地 | 尾鷲市北浦町11-8 |
所有者 | 金剛寺 |
一口メモ | 志摩州英呉郡尾鷲荘の記録 |