宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)【ほうえいつなみくようひ(まごせぼちのさんかいばんれいひ)】
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宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊碑)
宝永4 (1707)年10月4日、大地震が起こり東南海道一帯に津波が押し寄せた。このとき尾鷲浦においても、栢町(現・栄町)まで波が逆のぼり、人家半数が流失した。
見聞闕疑(けつぎ)集によると「流死人五百三拾餘人其外生類迄流失」とあるが、この供養塔には「男女老幼溺死者千有餘人」となっており、その死者数が相違している。
流死人530人というのは、津波が来た3年後の宝永7(1710)年に、視察にきた巡見使に対し質問に答えるため作られた回答文にもあるが、この回答文の中には最も被害があったと思われる堀北浦が書かれていない。おそらく堀北浦は全滅状態で、正確な数を把握できず、未調査のままに棄て置かれ、他の浦のみを集計したのであろう。
この碑(高さ150cm、横45cm、縦37cm)は、津波から7回忌にあたる正徳3(1713)年10月3日、船津村永泉寺の師心和尚が碑文を書き、野地村良源寺の絶嵓和尚が建立供養したものである。
この碑は、昭和48(1973)年4月11日に「馬越墓地津波供養塔」として市の有形文化財に指定された。そして、平成29年2月2日に当時の大地震と大津波の被害状況を今に伝える重要な歴史資料として、「宝永津波供養碑(馬越墓地の三界萬霊)」 の名称で三重県指定有形文化財(歴史資料)に指定された。
指定区分 | 県指定 |
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指定種別 | 有形文化財(歴史資料) |
指定登録日 | 平成29年2月2日 |
所在地 | 尾鷲市北浦町馬越墓地 |
所有者 | 金剛寺 |
一口メモ | 宝永4年津波供養塔 |