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あしあと

    常声寺の狂歌額・発句額【じょうせいじのきょうかがく・ほっくがく】

    • [公開日:]
    • [更新日:]
    • ID:13027

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    常声寺の狂歌額

     天保7(1836)年10月、常声寺へ奉納された狂歌額で、玉川舎毒也の選である。
     22名による94首が収められており、互選の結果、最高点は12点で、橋也作の「野や山に通ふには似ず乙女らは黒羽二重の羽織はなさず」であり、次席は桂男作の「客人も目を覚す頃島原に月をおくりて鳴くほととぎす」、また三席は豆也作の「化はひせず色にや出んと恋ふ身は寝乱髪を人やとがめん」で、いわゆる通人の集まりであった。
     天保7年は天保飢饉が漸く深刻化し、人心もすさんでいたが、それでも生活に明るさを求めて、狂歌をたしなむ人たちが、尾鷲を中心に22名もいたということは、大きな意義を持っている。
     たて71cm、よこ212cmの大きなもので市内では最も古い文学額である。

     

    常声寺の狂歌額

     

    常声寺の狂歌額の概要

    指定区分

    市指定

    指定種類

    有形文化財(書跡)

    指定登録日

    昭和51(1976)年5月17

    所在地

    尾鷲市中村町10-41(中央公民館)

    所有者

    常声寺 

    一口メモ

    地元22人の吟詠

     

     

    常声寺の発句額

     明治36(1903)年7月常声寺において、楽天社の主催により発句の先輩である21名の故人の供養をしたとき、奉納された発句額である。
     明治初年から発句をたしなむ人たちが100名を超え、楽天社という結社をもち、尾鷲文壇の主流をなしていたが、その指導者は細々園淇水(土井幹夫氏)で、平山香雨(林兵衛氏)や東龍孫(宗軒氏)が補助していた。
     明治36年の供養のときは、若林寿峰以下故人も21名に達していた。供養の席には社中25名が参加し、故人の句21句、現存者の52句が掲載されている。
     指導者の細々園淇水は、追善供養の詞を書き誌して、そのあと「明けやすき夜やありし世の語りくさ」と一句を添えている。また香雨は、「月にもと別れた道や草のつゆ」、龍孫は「一声は法の手向けぞほととぎす」と詠んでいる。
     たて57cm、よこ205cmで、尾鷲俳壇研究の唯一の貴重な資料である。

     

    常声寺の発句額

     

    常声寺の発句額の概要

    指定区分

    市指定

    指定種別

    有形文化財(書跡)

    指定登録日

    昭和51(1976)年5月17

    所在地

    尾鷲市中村町10-41(中央公民館)

    所有者

    常声寺 

    一口メモ

    46人句吟

    お問い合わせ

    尾鷲市役所教育委員会生涯学習課生涯学習係

    電話: 0597-23-8293 ファックス: 0597-22-0080   三重県尾鷲市中村町10-41

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